past:支えになってくれた人達
証拠が0という事であれば、私の勝算は40%だと弁護士に言われました。
内容が内容だけに、こんな事はウソですぐに出てくるものではない!と
信憑性は高くならないか聞いたのですが、その可能性はあるが相手に
否定されるだろうし、否定されたらそれを覆す証拠がないといけなくなり
結局難しくなるとの事でした。
そうなれば選択肢は2つ。5年以上の別居期間を稼いでから離婚裁判
を起こすか、もしくは空いての条件を全て飲んですぐに離婚するか・・・
私にとってはどちらにしても究極の選択でした。どっちもいやっ!!ww
ここからの約9ヶ月間、私は埼玉から千葉への月1の往復のため、
交通費を使い、会社を休んで交渉の日々を過ごすのでした。もちろん、
その間、娘には会えません。当然元ダンナを息子に会わせる事も
しませんが・・・。
ストーカー気質がある事が露見した元ダンナですが、この対策にも
気を使いました。いつなんどき息子がさらわれるか分からない、家や
職場を突きとめられるか分からない、ほんとに気を使い休まる時が
ありませんでした。9ヶ月間はいつも自分の足跡を気にして生きて
いました。
電話も元ダンナ名義だったので、取ろうと思えば履歴を取れるかも
しれない、と思いかける用事がある時は必ず、埼玉ではなく都内
からかけるようにしました。住民票は当たり前ですが異動していない
ので、あらゆる手続きに苦労しました。4歳の息子の乳児医療証が
使えず3割を実費で払っていました。(払い戻しは出来ます。)
婚費を払う義務がある事を知りつつ、全く支払いはないし、子供に
関する国からの手当て等も全て元ダンナがガメていたので、私と
子供は常に極貧状態。でも私の父な何度も援助してくれたので
助かりました。転居費用も親に頼りきり、色んな部分でNさんも
何度も助けてくれました。
苦しい時に話しを聞いてくれたり、ただそばでじっといてくれるだけ
の存在ってとてもありがたいし心強いですね。
子供が寝てしまい、シーンとした家に一人でいる時などは特に・・・。
色んな意味で難局を乗り越え、結果的にNさん=現在のboo
となるのですから・・・。
実を言うと息子は今でも大きな原動力となっています。当たり前ですが。
埼玉の新しい家に転居してすぐは、私は泣いてばかりいました。
気が付くと涙が落ちていたり・・・。そんな姿は息子に見せるべきでは
ないのですが、とめる事ができないのです。娘の笑顔や、連れ去られ
そうになった時、別れ際の泣き顔を思い出すと、今でも涙が出ます。
息子を夜寝かしつけている時、そんな私を気遣って
「おかあちゃん、大丈夫だよ。僕はどこにも行かないからね。
おかあちゃんとずっといっしょにいるからね。だから泣かなくていいよ。」
と言ってくれました。まだ3歳だった息子の言葉です。
この言葉にどれだけ励まされたか分かりません。その後も何度も
同じように慰めてもらいました。
そんな風に周りの人に助けられながら仕事をし、家事、育児を
しながら、月1度の調停をこなしていました。
弁護士を付けた事でとても精神的に安定した気がします。
まず、それまで「住所を教えろ!」「荷物を送りたい!」「息子に
あわせろ!話しをさせろ!」と毎日嫌がらせのように受けていた
電話もメールも、一切を弁護士が受けてくれるようになり、一気に楽に
なりました。それでも調停が近づくと気分が落ち込み、胃がいたく
なったり、本当に鬱のような状態になるのでした。
そして毎回調停では
「子供は渡さない。今でも妻に帰ってきて欲しいと思う。大歓迎だ。」
と言われたりして、弁護士と顔を見合わせてはげんなりしていました。